遊ぶと言うのは難しいことかもしれません

いろいろ考えているうちに、実は遊ぶこと(この場合、複数人で遊ぶことを指す。決して一人遊びではない。一人戯びでもない。)って考えると物凄く難しいことのような気がしてきました。このように言うのは何かおかしいのかもしれませんが、そんな気がしてなりません。


何故かというと、普段遊ぶ時って皆、無意識のうちに楽しさを共有できると思うのです。しかし、じゃあ、何事も無意識のうちにしてしまうと、誰が収拾をつけるのだ?
そもそも、遊ぶことにはそんなものをつける必要はあるのか?楽しければいいのではないのか?
それはもちろんその通りです。しかし、その楽しければいいというものは誰もが同じ「楽しい」を共有しているわけではないのです。

それぞれには満足度(以下、効用)があり、それぞれ異なった観点・度合い(以下、値)があります。
つまり、一人一人には楽しいという効用があっても、一人一人の値は異なっているのだと。


たとえば、Aさんはいつまでも遊べて、複数人で遊びたいという。一方で、Bさんは特定の時刻まで遊べて、その時間を過ぎるともう遊びたくなくなるとしましょう。
このAさんとBさんが一緒に遊ぶとなるとどういう問題が生じるでしょう?
まず、この楽しさを共有できる時間です。つまり、それぞれの効用を満たすことができるか。というのが問題となるわけです。Bさんが遊んでいられる時間まで働いたとすると、Bさんの効用は満たしたわけですが、さてAさんはどうでしょう?いつまでも遊ぶのであれば、効用は当然満たせていません。妥協をしなければいけなくなります。


そう、つまり何が言いたいのかと言うと、誰かが妥協をしなくてはいけないということ。誰かが自分を犠牲にして、遊ぶと言うことに興じる羽目にはなるということ。


私は遊ぶために立てた企画を起こした人というのはそういった妥協をある程度する必要が潜在的に有るのではないかと思います。そして、その上である程度まで楽しめればいいと思うことが大事だと思います。



一人一人の効用がどの程度なのか、一人一人の需要はどの程度なのか、一人一人はどの程度「楽しさ」を感じることが出来るか。それを考えていくと遊ぶことってなかなか難しいのではないでしょうか?



また、遊ぶために立てた企画を起こす人というのは、一人である必要はないと思います。企画に参加する者ではなく、企画を実行に移す者は一人ではとても難しいと思います。だから何人かで組んで、たとえば3人なら3人で、それぞれの考えが聞けるわけですから、実行した方が一人でやるよりははるかにマシです。

場合によっては、一人の方がやりやすいというケースもないわけではないです。しかし、理想としては、複数人でやったほうがいいんです。たとえ、それが私もできていないことだとしても。